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第 46 話 連立与党の話  古代史編

2025.07

 

参院選で連立与党大敗、衆参両院で少数与党となった。長年小党ながらも連立を組んできた公明党は更に議席を減らし、自民にとっても当てにならなくなってきたか。

連立与党、、、そんな身近な言葉を使って古代史を表現したら意外とわかり易いかも、、、。今回はそんな提案をしてみたい。

 

古代から連立政治体制はもちろんあった。むしろ、そこから始まり競り合って独裁政治体制にたどり着く、それが世界の歴史の流れだ。ただ、独裁体制は概ね300年が限界寿命、それも歴史の教えるところ。

ところで「日本国」は建国以来天皇家の下に1300年続いている。それは連立体制なのか、はたまた独裁体制なのか、、、。その答えは「日本流の『君臨すれども統治せず』、それを確立したのは藤原不比等だ」と筆者は考える。説明しよう。

 

● 卑弥呼(ひみこ)の連立与党

卑弥呼の時代、倭国大乱を終わらせる為北九州の主要国が集まって卑弥呼を共立した、という。ならば倭国は共立与党に支えられた連立政権、卑弥呼は党を持たないが与党選出の首相であった、といえる(後漢書・魏略・魏志倭人伝)

ちなみに、共立与党のひとつにアマテラス党があった。スサノヲ党(アマテラスの弟、豊国小倉区)から国譲りを得て倭国大乱に終止符の一つをもたらしたから、アマテラス党は新参ではあるが有力党であった(史書と神話の時代比定については注1)。党首は天孫兄ホアカリ(政事・軍事担当、筑紫遠賀川区、先代旧事本紀)、副党首は天孫弟ニニギ(祭事担当、豊国小倉区、記紀)だ。

 

● 「宋書倭の五王」も連立政権

台与(とよ)から100年、九州倭国は「共立倭国内は政争禁止」だったから、それを尻目に、独りせっせと「東征」に励んだニニギ派(神武・崇神・景行)は党勢拡大に成功。逆に、台与倭国は野党熊襲(くまそ)の神出鬼没の切り崩しに晒され共立は徐々に崩壊。これは「多党連立の弱さ」の典型か。

ニニギ派の「東征」で蓄えた力を借りて、ホアカリ派が「西征」を成功させたから(熊襲征伐、景行・ヤマトタケル・仲哀/神功)、アマテラス党が九州倭国を再統一し、東征で得た「東方」と合わせて列島をほぼ掌握した(西暦360年頃)。

これがのちに宋書「倭の五王」とされた新倭国である(宋書倭王武上表文、注2)。

この新倭国も連立政権だった。なぜなら、この頃の与党アマテラス党は二つの党に別れていたからだ豊国のニニギ派は応神の時に本拠を大和に遷し、ヤマト党として祭事・軍事・東方担当の第二与党、ホアカリ派はツクシ党として第一与党となり政事・外交を担当、新首相(倭国王)を出した。即ち、喧嘩別れではない、遠くなったので独立して連携した。五王の倭国も二党連立の与党連合政権だったのだ。典型的な「連立与党の強さ」か(雄略紀五年条+武烈紀四年条、注3)。

 

● 倭国の連立崩壊の兆し?

ヤマト党は更に東方開拓を進めて党勢拡大し、海外派兵の兵員数でも存在感を増した(東方軍=日本軍を自称)。雄略の代では党勢が最大化して、首相(倭国王)を出すツクシ党と互角の発言力を持った(百済王子の人質分け取りなど)。それを首相(倭国王)は危惧した、「このままヤマト党の拡大を放置すれば、ヤマト党が単独政権を目指しかねない。同族・兄弟党連立政権の危機だ」と。「独裁志向の芽」か。

そこで、第一与党ツクシは先手を打った。ヤマトの(雄略の後代)武烈天皇が暴政で統制力を失い継嗣に恵まれずに崩御した機をとらえ、(応神が豊国に残した)ニニギ系分家の中から応神五世孫の継体を選び、武烈の傍臣にクーデターを起こさせて主流大臣を謀殺させ、継体を擁立させた。第二与党党首に即位できた継体はこれに恩を感じて第一与党ツクシ党に忠誠を誓った。連立崩壊の芽は摘まれたのだ。

 

● 連立の逆転、また逆転

ところが、長年第一与党だったツクシ党に危機が襲った。外交担当のツクシ党は宋に朝貢してその国際的認証を背景に半島(任那等)や倭国内で主導権を得て繁栄てきたが、その宋が滅亡したのだ(479年)。後ろ盾を失った「半島軍事権」に半島諸国が離反し、権益を失い、九州内ですら「磐井の乱」(527年頃、筑後・豊後の豪族の反乱)が起こって政権喪失に瀕した。

これを救ったのが新ヤマトの継体だ。即位で恩を感じた継体は死力を尽くして磐井の乱を征伐し、内政立て直しに専念したツクシに代わって「外交宗主権」を預かり「任那回復」に大軍を送った。またそれを指揮する為に「ヤマト朝廷の九州遷都」を実行した(安閑〜推古)。ヤマト朝廷はツクシ朝廷にしばしば加わって倭国朝廷を成した。連立第一与党が(議題にも依るが)ツクシからヤマトに交代(逆転)、連立政権の変質、である。その「連立政権の柔軟性」が危機を救ったのだ。

結論から言うと、この交代がものの見事に失敗した。瞠目の動員兵数を誇るヤマト・日本軍(東方軍)の「任那日本府」外交戦略も経験不足から失敗続き、九州に遷都したヤマト朝廷は華やかな先進大陸文化に目が眩(くら)み、ツクシ朝廷の重臣物部氏や蘇我氏に翻弄されて党首人事(皇位)まで弄ばれる有様であった。結局、ヤマトの九州遷都(一次)は九十年間を以て推古の大和帰還遷都で終了する(603年)。

 

● 連立への調略(ちょうりゃく) 隋・唐の遠交近攻策

外交宗主権をヤマトから取り戻したツクシ(阿毎多利思北孤、(筆者ブログ第5話「プーチンの暴走」参照 (ここに戻るには開いたサイトを閉じる))は倭国として初めて遣隋使を送った(600年)第一次遣隋使は隋に情報の取られ放題、研究され放題だったようだ。隋・唐はその時から倭国と付き合うには「ツクシとヤマトを競わせ離反させる遠交近攻策」が有効、と見定めて、「次回は連立与党のヤマトの代表も随行させるように」と注文したようだ。

第二次遣隋使に倭国はヤマトの小野妹子の随行を許した(607年)。隋は小野妹子に裏外交で推古への煬帝親書を渡し、隋の調査使裴世清はツクシとヤマトの双方に朝貢権認可をちらつかせて競わせ、見事な「遠交近攻」裏外交を展開した。

この唐の「遠交近攻策」は数十年続いた(推古・舒明・孝徳・斉明、注5)。その間に連立関係のひびはジワジワと広がったそれでもツクシ倭国の「時代錯誤の対唐戦」にヤマトが及び「腰ながらも参戦」したのは「祖を同じくする兄弟党の連立政権」という稀有な紐帯(ちゅうたい)があったからだ。

 

● 連立政権の終焉

ついに倭国は唐と白村江戦に突入。この直前に唐は斉明に「倭と離反するように」と密使を送った。ヤマトは「腰の引けた中途半端な参戦」(斉明崩御を理由の遅刻と半減)でかえって敗戦の一因をつくり、ツクシに恨まれたが(拙次著第九章●410)、唐にはそこそこ評価された(拙初著第九章●227)。「連立政権の連立らしからぬ敗戦」であった。

結局ツクシ倭国は唐軍の筑紫進駐の後滅亡した。連立はおろかヤマトを含む倭国そのものが滅亡してしまったのだ。

 

● 日本建国 連立政権でなく一党独裁

倭国の滅亡から20年後、天武の孫文武天皇が日本国を建国し(701年)、遣唐使を出して朝貢を願った(702年)。時代は唐の最盛期、唐は過去の経緯(ヤマトは調略に優柔不断・結局参戦)を知りながら、知らぬ顔して「日本国は(反唐派の)倭国とは別の国、(親唐派だったから)朝貢を許す」として公式史書「旧唐書」は「倭国条」を閉じ「日本条」を立てた。

以後、日本国はニニギ系の一党独裁として続いた。これを確立したのは藤原不比等だ。父の中臣鎌足は倭国内ニニギ系上宮王に仕え、ホアカリ王家の外戚(物部氏)体制の良さ(大臣の競い合いはあるが、王統は打倒の対象からはずれる)・悪さ(大臣の専横)も見てきた。専横を倒したら(物部守屋討伐)、思いもかけず「独裁」となり(多利思北孤大王親政)、その悪さ(硬直外交)も学んだ。それが「連立政権にひび」を招き、それにつけ込まれて隋・唐の遠交近攻策を呼び、(上宮王/鎌足の離反・ヤマト党への合体を経て)最後は白村江の敗戦と連立体制の終結となった。それらの経験が、鎌足から不比等へ引き継がれていった。

 

● 古代が学んだ「君臨すれども統治せず」

様々な体制から学んだ藤原不比等の得た結論は「天皇(皇統)と臣下(人)の違いは神代の決まり事、人代では代えられない、とする。その代わり、天皇は君臨すれども統治せず、だ。その為の記紀の再編纂(神代と人代の区分)だ。そうすれば大臣らが競う「国政」の連立・切磋琢磨・争いはあっても、「国体」は安定する。」と。その思想は、藤原・平家・源氏〜豊臣・徳川と引き継がれ、進化した。

それは現代にも引き継がれている。「君臨すれども統治せず」の天皇制の下、統治する政権は「一党独裁」への誘惑、「二党連立」のマンネリ、「少数与党」の不安定、「多党連立」の混乱、そうした様々な弱みを乗り越えねばならない。しかし、「日本国」はそうした経験を古代にすでに乗り越えて、その解決を踏まえて建国されているのだ、と古代史は我々に示している。

 

46話     了

 

 

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以下、第46話   注

 

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●注1  卑弥呼とアマテラスの天降り時期  (本文に戻る

アマテラスは高天原(対馬、良田が無い、魏志倭人伝)から良田を求めて朝鮮半島南端(高興か)に移住してささやかな良田を得た。しかし、半島では後漢の膨張・韓人の逃避南下、倭人の逃避南下・渡海列島移住があり、列島先住民との争いが起こった(倭国大乱)。アマテラスも列島移住を決意し、兄弟国のスサノヲと葦原中つ国(小倉)を争って勝ち、国譲りを受けた。それを受けて天孫ニニギが「葦原中つ国を支配する為に、ツクシの日向(門司)の小戸・高千穂峰に天降りした」という(神代記紀、拙次著第二章 → ここに戻るには開いたサイトを閉じる )。

「倭国大乱とそれを収めた卑弥呼の史実」(後漢書・魏志倭人伝)と「アマテラス一族の列島移住の物語」(記紀神話)は多くの状況で一致している。この神話物語は文献史学上前者史実の一部、と考えられる。

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●注2  倭王武上表文  (本文に戻る

宋書に次の文がある。

 

宋書倭国伝478年条 倭王武の上表文

「封国(倭国)は偏遠にして、藩を外に作す。昔より祖禰躬(そでいみずから)甲冑を撰(つらぬ)き、山川を践渉し、、、東は毛人を征すること55国、西は衆夷を服すること66国、渡りて海北を平ぐること95国云々、、、窃(ひそ)かに自ら開府儀同三司を仮し、その余は仮授して、以て忠節を勧む」と。(順帝)詔して武を使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓6国諸軍事、安東大将軍、倭王に除す」

 

ここで注目すべきは「東征・西征・外征」がこの順で出てくること、これが日本書紀の記述順と一致していることである。「倭国不記載」の日本書紀が「倭国を記した宋書記載」と一致すること、それは「倭国不記載」にもかかわらず「東征・西征・外征が倭国(ツクシ)とヤマトの共同事績」であったことを記紀は暗に記していることを「二書は文献史学的に証明している」という点である。

東征(ニニギ主体)・西征(ホアカリ主体+ニニギ協力)・外征(ホアカリ主導+ニニギ主力)のすべてを倭国王が「自分の祖先の成果」としていること、これは第一与党の首相として当然の言い方であるし、第二与党ニニギと協力しているから嘘ではない。

「自ら(仮の)政府を開いたが承認してくれ」の裏の意味は「倭国の政事は一党独裁ではなく、宋の承認を必要とするような(不安定さを内蔵した)連立政権」であることを問わず語りに漏らしているのである。

 

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●注3  雄略紀五年条  (本文に戻る

雄略紀と武烈紀の分析から「百済蓋鹵(けろ)王の弟が大倭(倭国美称)の天王に、末弟が日本の天皇に仕えた」と読み取れるから、「倭国≠ヤマト」「倭国王≠ヤマト天皇」「倭国王興≠雄略天皇」が日本書紀(と宋書)から読み取れるのだ。即ち、第一与党ツクシの倭王興と第二与党の雄略天皇は「百済の人質兄弟王子を分け取り」している連立与党だった。詳細は筆者拙初著●110〜118を参照されたい。

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●注4     (本文に戻る

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●注5  ヤマト歴代への調略  (本文に戻る

推古の遣隋使とは倭国遣隋使への随行使であったこと、推古に対する隋の調略については拙初著第七章で詳述した。また拙三著第五章も参考に。また

孝徳に対する唐の調略はこうだ。孝徳は倭国遣唐使に毎回ヤマト随行使を出し、唐の調査使を受けたりしたこともある。654年の随行使が持ち帰った孝徳宛密書に唐皇帝高宗の璽書があり「出兵して新羅を援けよ」とある(百済攻撃命令)。孝徳は倭国(百済支持)との板挟みで窮したか、まもなく崩御している(新唐書日本伝654年)。公式史書は通例裏外交は記さないが、「新唐書」は倭国滅亡後の史書で、公式外交相手国は日本だから裏外交扱いではないのだろう。

斉明に対する唐の調略はこうだ。 斉明紀 割注所引(ひくところの)伊吉連博徳(いきのむらじはかとこの)書 659年条「(遣唐使、摂津)難波、、、より発す、、、(唐)天子相見て問訊し『日本国の天皇、平安なりや(天子相見問訊之日本国天皇平安以不)』と、、、勅旨す、国家来年必ず海東の政あらむ(戦争となるだろう)、汝ら倭の客東に帰ること得ざる(抑留)、と、、、」 661年条「(伊吉博徳は許されて困苦の末帰国し)朝倉の朝庭の帝(斉明天皇)に送られた、、、時の人称して曰く、大倭の天の報い、近きかな」 詳しくは拙三著第五章に詳説した。

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46話   注  了

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