第 21 話 「呉服」の「呉」
2022.9.16
「呉服」という言葉は年配者とって懐かしい言葉ですが、着物を着る人も少なくなり、呉服屋さんも少なくなりました。今のうちに再確認しておきたいことがあります。それが首題です。
日本では呉服の「呉」は「中国の同義語」のように使われてきた、と思う人も多く、「ああ、三国志の呉、大陸の海寄りのあのあたりの地名だろ」と知っている方も少なくありません。
そう、それはそれで千年信じられてきた、というのも事実ではあります。
でも、なにか違う、本当はどうなのか?
意外に明確な実像、「呉服の呉」の「直接的語源」の扉が「日本書紀」の鍵で開きます。ご期待ください。
● 応神紀の「呉」 4世紀
日本書紀には「呉」字が34回出てきますが、主なものは、
「応神紀の漢人技工招聘(しょうへい)譚(6回)」と「雄略紀の漢人技工招聘譚(>17回)」です。
応神紀の「呉」は説明も無くいきなり出てきます。
応神紀三七年(390年頃)
「(半島からの渡来漢人の子孫である)阿知を呉に遣わし縫工女を求めしむ、、、」
まてよ、この時代に「呉国」があったなんて聞いていないから、「呉地方」の意味だろうな、それなら知っている、上海地方に何回も出てくるあの「呉地方」だろう、、、。
ところが、この文は続きます、、、。
応神紀つづき
「(阿知は)高麗国に渡りて呉に達せんと欲す、則ち高麗に至る、更に道路を知らず、高麗王は導者(道案内)を与え、是に由り呉に通じるを得る」
高麗(高句麗)の隣の「呉」?、そんなところにも「呉」の地名があったのか、、、。
ところが、たんなる地名ではないのです。この文は続きます、、、。
つづき
「呉王、是に於いて工女兄媛、弟媛、呉織、穴織の四婦女を与えた」
応神紀四一年「阿知、呉より筑紫に至る」
「王」がいるからには「呉国」です。しかしさすが、「呉国」がこの辺にあった、と歴史書には無いのでは?、、、・
● 遼西の呉 (3・4世紀)
ところがあったんです。史料は、、、
梁書百済伝
「晋(265~>420年)の世に高句麗は既に遼東を略有し、百済はまた遼西・晋平二郡の地を拠有する、呉は自ら百済郡を置く」とあります。
ここで「遼西」とは遼東半島の向こう、渤海の北岸にそそぐ「遼河」、その西領域を指します。

遼西の呉国と百済
ここに「高句麗の向こうに百済(領)があり、隣接して(友好的な?)呉国があった」とあります(400年頃)。
えっ、「百済」は半島の南でしょ! 飛び地? 別の国?
この歴史は面白いのですが複雑です。簡単には後述しますが、ここでは「百済の飛び地」、仮称「北百済」で話を進めます。
この呉国と百済の古い関係の記録が10世紀の古辞書「広韻」にあります。
>広> >韻 (青字をクリックで注へ)
「(呉越の戦い(前5世紀、①下図)に負けて北に逃げた一部の)呉王族の子孫 が今の 百済扶余王 だ」
どうやら遼西は「(南から流れ来た)呉王族と(北から南下した)扶余(ツングース系)が出会った故地②」だったのです。
この地は漢の外縁で、扶余族が漢の圧力をかわす為に漢人王(呉王)を戴いたのでしょう。「呉王/扶余族」の関係がこの地でできたようです。その後その一部は南下して馬韓に「百済」を建国し③、次第に馬韓にとって代わりました(三国史記BC18年)。
しかし建国後、百済の王はしだいに「扶余系」に代り④、不満を持ったか「呉王系」は分かれて北の帯方に ⑤(周書百済伝200年頃)、楽浪⑥(晋書百済伝372)を経て故地の遼西に戻ったのです⑦(梁書百済伝400年頃、上掲)。それが上図の北百済です。

呉と扶余の出会い 呉系は赤、扶余系は黄
北百済は390年頃~500年頃まで続きましたが、衰弱して南百済に吸収されました(梁書百済伝502年)。隣の呉は更に600年頃まで続いたようです(後述)。
● 雄略紀の呉 呉織・呉財
日本書紀に戻ります。
百済と北百済の間では長年交易があったようで、倭国・大和にとって、「遼西呉 ⇔ 北百済(遼西) ⇔ 百済(南韓) ⇒倭国⇒大和」経由で南朝系の晋・宋の(のちに北朝系の北魏も)文物が入って来ました。百済が「呉物」と珍重したので、それを再輸入した倭国でも「呉物(くれもの)」が中国物(からもの)の代名詞になった由来です。それが日本書紀に出てくるのです。
呉織(応神紀三七年条>390年頃、高麗経由で呉王提供・雄略紀)・呉琴(雄略紀、百済経由の呉国人が伝承)・呉財(欽明紀、任那経由)など。
「呉国、高麗国、並びに朝貢す」(仁徳紀五八年条)。定説はこの「呉」を中国と解釈しますが、さすが当時の強国東晋や高句麗が倭国に朝貢するはずはありません。この呉国は(小国の)遼西呉国です。
また、この高麗国は高句麗ではなく、伽耶の中の同名の小高麗国(分国)です(別名「小水貊」、高句麗は別名「狛」(三国史記高句麗伝)、坂田隆説)。
小国からの献上を「朝貢・貢献」とする例は記紀に多く見られますが、大国(中国・高句麗)には使っていません。
雄略紀
461年「呉国が遣使貢献した」
464年「使いを呉国に遣わす」
468年「使いを呉に使わす」
470年「使いが呉国使と共に帰国、呉の献ずる手末の才伎、漢織・呉織及び衣縫の兄媛・弟媛等をひきいて住吉津に泊まる」(漢人技工の大和招聘譚)
● 続いた呉との関係
北百済が弱体化し南に逃れて南百済に吸収されて無くなりました(上述、梁書百済伝502年)。その後も「呉」との交流はつづきました。
「百済が任那日本府に呉財を贈った」(欽明>545年)。
「百済王、命じて(使いを)呉国に遣わす、その国(呉国)乱れ有りて入るを得ず」(推古紀>609年)。
入国できなかったが、呉国があったことの証拠です。隋はこの頃安泰でしたから、呉=隋ではありません。隋の小属国群の間の小競り合いでしょう。
「百済より帰化する者あり、呉橋を構(つ)くらす、、、(別の百済帰化人)呉に学び伎(くれ)楽の舞を得たり、という」(推古紀>612年)
「呉唐の路に使いす、、、難波より発し、、、筑紫より発し、、、」(斉明紀>659年)
この最後の記事は、倭国遣唐使に大和随行使が同乗したことが解っていますが、「呉唐」は倭国が遣唐使の目的地の一つに「呉」を加えたようです(しかも最初の訪問地)。倭国はまだ「南朝」にこだわって、唐訪問に先立って遼西呉国を訪ねてみようとしたのでしょう。この時は暴風に阻まれ、唐に直接行った、とあります。
その後の「呉」は不詳です。
以上、日本書紀の「呉」は(ほとんど)すべて「遼西呉」を意味します。
「遼西呉⇒百済」が中国物の交易窓口だったことから、「呉」字が記紀に多出して、後世広く中国物の代名詞になったことは事実です。それが現在でも日本語の中に出てくる由来です。
それに、、、「遼西の呉」も更に遡(さかのぼ)れば「呉越の呉」に由来する、といいました。それなら「呉服の呉」も遡れば「中国の呉」もあながち間違いとは言い切れません。
しかし、「呉服」の「呉」の「直接的語源」は「遼西の呉」だったことは論証できたと考えます。この論証が既にあったか、、、浅学の筆者は「無かった」と思い、一つの試説・一つの史実として認められれば幸いです。
第21話 了
以下、 第21話 注
注●1 呉国と百済の関係資料 広韻> (戻る)
史記BC538年「呉は南隣の越(会稽南)との戦いに敗れ、北(東表、青島の西へ?)に逃げた」
広韻(10世紀頃の韻書集)
「風俗通(風俗通議)に云う、呉公子夫概*の子(子孫か)、、、扶余を以って氏と為し、今の百済王扶余氏なり」
*夫概 周王の子で呉の始祖太伯から6代闔閭(こうりょ)王の弟(前五世紀)
呉越の呉①の子孫王族が扶余(ツングース系)の一部を支配するか、担がれて王となり②、後の百済王③となった様です
呉と扶余の出会い 呉系は赤、扶余系は黄 (再掲)
(戻る)
●注2 百済の建国 三国史記 前一世紀 ( 戻る)
三国史記「BC18年、高句麗(扶余の出)の始祖朱蒙(しゅもう)の庶子温祚(おんそ)が南韓の馬韓の地に百済を建国した③(注1図)」
この百済は前節の「呉王を冠する扶余」です。馬韓に行った先で百済を名乗ったのです。ここに呉王が記されていないのには訳があります。のちに呉王系は分離したのです。
扶余族が漢人王を戴く理由は、二つ考えられます。いずれも漢と扶余が境を接する遼西・遼東地方でしたから、呉王(漢人王)が力で扶余族の一部を支配下に置いたか、扶余族が漢の圧力をかわす為に(形ばかりの)漢人王(呉王)を戴いたかでしょう。ここは後者でしょう。(戻る)
 

呉と扶余の出会い 呉系は赤、扶余系は黄 (再掲)
●注3 四世紀のまでの百済> (戻る)
呉王/扶余は(海路)南下して馬韓の一部に百済を建国しました(前一世紀頃)。
(1) 百済は馬韓内に建国し、次第に勢力を増し、馬韓にとって代わった。
(2) 百済は呉系王支配から扶余系王支配に代わった④。
(3) 呉系は不満を持って、国を割って北(帯方)移り、宗主を主張し「百済」を名乗りました⑤。
(4) この百済(北百済)は漢系(呉系)だったので、楽浪太守を任されました⑥。しかし、高句麗が拡大して圧迫したので遼西に移り⑦、「百済」として中国に朝貢したので、以後北百済が百済の宗主国と認められ南百済は朝貢を認められませんでした。 (>戻る)
●注4 呉系百済の独立> 周書百済伝 (>>戻る)
百済は呉系の王から次第に扶余系の王に代わったようです。呉系王族は不満を持って、国を割って北(帯方)移り、宗主を主張し「百済」を名乗りました⑤。
周書百済伝
「百済は、その先は蓋し馬韓の屬國、夫餘の別種なり、仇台なる者、國を帶方に始める」
隋書百済伝
「東明(扶余の始祖、一説では高句麗の祖朱蒙(しゅもう)と同一視)の後、仇台なる者あり、始めて国を帯方の故地に立つ、(後)漢の遼東太守公孫度(200年頃、半独立帯方郡太守)、女(むすめ)をこれの妻とさせた」
晋書百済伝372年
「百済王余句を拝して鎮東将軍と為し楽浪太守を領せしむ」
残された扶余系百済(南百済)は国名「百済」を変えなかったので、「二つの百済」が続きました。
「二つの百済説」は坂田隆の「古代の韓と日本」新泉社1996年 を参照されたい。この説では「遼西呉=(北)百済」としている。筆者は「遼西呉>≠(北)百済」を取る)
(戻る)
●注5 梁書百済伝>502年 > (戻る)
北百済は高句麗が南下して圧迫されたので、楽浪太守を守り切れず、北上して楽浪の遼西・晋平を得ました。遼西は百済にとって故地でした(注1図③)。隣の呉国にとっても、同族の呉系百済王を歓迎し、呉国内に百済郡を設けたのです。
この百済王は北魏に朝貢して「百済王」を認められ、以後502年まで、百済王を継承しました。
梁書百済伝502年
「號を征東將軍に進めたが、高句驪の破る所、衰弱は累年、南韓地⑧に遷居す」
これが北百済に関する中国史書の最後の記述である。 (戻る)
第21話 注 了